クリプトコラム

ビットコインは突然生まれたわけではない(前編):銃でも爆薬でもなく「数学」が危険視された

公開日2026年07月21日

1977年、アメリカ政府がある学会に圧力をかけました。危険視されたのは、銃でも爆薬でもなく「数学」です。ビットコインへの長い助走は、ここから始まります。

暗号が「普通の人のもの」になった日

1970年代まで、強い暗号は軍や政府の専売品でした。民間への普及はどこか遠い話とされていました。それを変えたのが、ホワイトフィールド・ディフィーとマーティン・ヘルマンです。

2人は1976年、「ディフィー・ヘルマン鍵共有プロトコル」を発表します。離れた相手と安全に秘密を共有できる仕組みで、平たく言えばインターネット上で「内緒話」をする土台です。これを脅威と見なしたアメリカ政府は、翌1977年、学会参加者に「出席は違法になる可能性がある」と警告まで出しました。それでも、研究は世に広まりました。

同じ1977年には、2人がラルフ・マークルと共同で「公開鍵暗号」の特許を出願します。現在のPGPやSignalなど、メールやチャットの暗号化の基礎になっている技術です。

サンフランシスコで始まった小さな集まり

1992年、3人がサンフランシスコで集まりを始めます。サン・マイクロシステムズの初期社員だったジョン・ギルモア、プライバシー活動家のエリック・ヒューズ、インテルの開発者ティモシー・メイです。テーマは「暗号で自由を守る方法」でした。

この集まりがオンラインに広がり、「サイファーパンク・メーリングリスト」になります。ヒューズは翌1993年、「サイファーパンク宣言」と呼ばれる文章でこう訴えます。政府や企業がプライバシーを尊重してくれると期待するのは間違いで、欲しいなら自分たちで守るしかない。そして、有名な一文で締めくくります。「サイファーパンクはコードを書く。」

議論だけで終わりません。匿名メール、電子署名、電子マネー。コードを書いて、配る。それがこのグループの流儀でした。

政府と、暗号をめぐる戦い

クリントン政権は強い暗号を「犯罪者やテロリストの道具」と位置付け、政府が復号鍵を預かる仕組み(クリッパーチップ)を暗号製品の標準に据えようとします。この空気に逆らったのが、プログラマーのフィル・ジマーマンでした。彼は1991年、強力な暗号ソフト「PGP」を作り、誰もが無料で使えるよう世界に公開します。そのジマーマンも、のちに武器輸出管理法違反の疑いで、3年におよぶ刑事捜査の対象になりました。

サイファーパンクの反撃は工夫されています。PGPのソースコードを「本」として印刷し、海外に郵送したのです。本なら、憲法が保障する「表現の自由」が適用される。法律の抜け穴ではなく、原則で対抗する戦い方でした。

1996年、ジマーマンへの捜査は、起訴されないまま打ち切られます。同じころ、別の裁判では、暗号のソースコードは憲法が保障する「表現の自由」にあたる、という判断も示されました。

ビットコインは、この続きです

「メッセージを守れるなら、価値も守って動かせるはずだ」という発想は、この流れから自然に出てきます。デビッド・チャウムの電子マネー構想も、その一例です。追跡されない決済を、暗号技術で実現しようとした先駆者でした。

そして2008年、サトシ・ナカモトがビットコインの白書を投稿したのも、暗号技術をめぐるメーリングリストでした。偶然ではありません。

値段の話から入ると見えにくいのですが、ビットコインの背景には「技術で自由を守る」という、相当長い積み重ねがあります。

本トピックについてもっと詳しく知りたい方はこちら

(外部サイトへ遷移します)