1億米ドルを持ち去って、堂々と「これは合法だ」と言い張った男
1億米ドルを超える暗号資産を持ち去った男は、逃げも隠れもしませんでした。それどころか自ら名乗り出て、こう言います。「これは合法な取引だ」。2022年10月の、実際にあった話です。
しかも彼の言い分には、厄介な点がひとつありました。彼は、誰にも嘘をついていなかったのです。
30分で13倍になった担保
舞台は、ソラナ(Solana)の上で動いていた「Mango(マンゴー)」というDeFi(分散型金融)です。DeFiは、銀行のような窓口や担当者を置かず、公開されたプログラムでお金の貸し借りを回す仕組みのひとつ。Mangoでは、自分の持っているコインを預けると、その値段に応じてお金を借りられました。質屋に時計を預けてお金を借りるのに、少し似ています。
彼が狙ったのは、自分だけが大量に持っている無名のコインでした。まずMangoが発行するその小さなコインを買い集め、値段を30分ほどで約13倍に吊り上げます。すると預けたコインの評価額もいっしょにふくらみ、Mangoは律儀に、その金額に見合うお金を貸してくれる。こうして彼は約1億1,000万米ドル相当を借り出し、返さないまま引き上げました。消えたのは、Mangoにお金を預けていた、ほかの利用者たちの資産です。
そんな選択ができてしまうのか、と思うかもしれません。できます。Mangoに「借りたら返さなければならない」という決まりはありません。返さなければ、担保に置いたコインが強制的に売られる。それで貸した分を回収する仕組みです。ふつうは担保のほうが借りた額より大きいので、この回収は成り立ちますし、借り手も返したほうが得になります。彼がひっくり返したのは、その前提でした。担保として数えられていたのは、彼が値段を動かせる薄い市場のコインです。値段が元に戻ったあと、売っても借りた額には届きませんでした。
プログラムは「さすがに変だ」と思わない
なぜ、こんな取引が通ってしまうのか。人間の審査係なら「30分で13倍はおかしい」と手を止めます。でもMangoは、コインの値段を市場から機械的に読み取るだけで、その数字を疑いません。表示されたとおりに、律儀に貸し出しを実行しました。
しかも彼は、システムに一度も嘘をついていません。参照される値段を、本物のお金で実際に動かしただけ。機械の側から見れば、何もかもが正常な取引でした。この事件のあと、値段を1つの市場だけで信じない工夫は広がりましたが、値段を信じて自動で動く仕組みである以上、同じ型の隙をゼロにするのは難しいと言われます。
盗みと呼びたい。でも、どの決まりを破った?
彼の言い分は、ただの強がりではありませんでした。誰のパスワードも盗んでいない。どこにも侵入していない。しかもMangoには利用規約がなく、「こういう操作をしてはいけない」という決まりが、そもそもどこにも書かれていませんでした。
鍵をこじ開けて入れば泥棒です。では、開いたままのドアから入り、置いてある仕組みをそのまま使っただけなら。しかも相手が、文句ひとつ言わないプログラムだったら。あたりまえに見えていた線引きが、急に頼りなくなります。
法廷も、まだ線を引けていない
決着は法廷に持ち込まれました。彼は2022年の暮れに逮捕され、2024年、詐欺などの罪でいったん有罪になります。ところが2025年、裁判官がこの有罪を取り消しました。自動で動くだけのプログラムを相手に「嘘をついてだました」とは言いにくく、Mango側にそれを禁じるルールもなかった。「借りたら返す」という前提が利用者のあいだで共有されていた、と示す証言もなかった。それが理由でした。検察はこれを不服として控訴し、争いはいまも続いています。
事件のあと、Mango側は彼と交渉し、持ち去られた資金の多くは戻りました。それでも、一部は彼の手元に残ったままです。
多くの人が「あれは盗みだろう」と感じた出来事が、法律の言葉に置き直そうとすると、まだ「盗み」と言い切れずにいる。銀行なら、途中で「待った」をかける人がいます。Mangoのように値段を信じて自動で動く仕組みには、それがいません。便利さと引き換えに、「これは盗みなのか」という答えの出ない問いが、そっくり残りました。