本稿は2026年5月28日発行の英語レポート「What the fog of war clouds: transition risks, inflation dynamics and spillovers」の日本語訳です。内容については英語による原本が日本語版に優先します。
2月の終わりに米国とイスラエルがイランに対して共同攻撃を開始して以来、市場は紛争の進行やその潜在的な解決策にそれほど関心を見せていない。むしろ、特にAI投資関連の設備投資ブームが続くなか、当該紛争から生じる様々なリスクは一時的なもので、長期的な材料というよりは一時的に注意をそらす雑音に過ぎないと見なしているようだ。
2月に戦闘が始まってから、議論は「紛争が近いうちに終結するかどうか」という点に限定されがちだった。そうした期待が裏切られるたびに市場は失望を味わい、焦点は足元のAI投資ブームなど他の事柄へとすぐに移っていった。このパターンが示唆しているのは「ニュース疲れ」で、市場は根本的な想定を更新することなく焦点のリセットを繰り返している。
しかし、焦点のリセットが繰り返されることにより、市場は重要な知見を見落としてしまっている可能性がある。価値ある情報は結果からだけでなく、実現しなかったレジーム移行からも得ることができるからだ。このような実現しなかった移行を理解することで、将来の移行シナリオをより的確に評価できるようになるかもしれない。
紛争を理解するための枠組み
実現しなかった移行を理解するために、当社ではゲーム理論的モデルを開発した。このモデルは、以下に示す通り、紛争が移行し得る5つの「状態」(またはシナリオ)とそれに応じた市場の動きで構成されている。
- シナリオ1 ― 信頼性重視がもたらす紛争激化:米国が、抑止力と信頼性の維持が短期的な経済的コストや市場コストよりも重要であると判断し、紛争をエスカレートさせる
- シナリオ2 ― 戦争リスク支配型の威圧:米国・イラン双方が高い圧力を維持し紛争をエスカレートさせる選択肢を残しながら、本格的な軍事衝突は回避する
- シナリオ3 ― 相互的な出口戦略:双方が停戦または交渉へと向かうが、この状態が安定的に続くのは譲歩とその履行が信頼できる場合のみ
- シナリオ4 ― インフレが余儀なくする紛争激化の回避:インフレや原油価格、債券利回り、国内市場からの圧力を受けて、政策当局が紛争激化の回避へと向かわざるを得なくなる
- シナリオ5 ― タカ派的な政治圧力:国内の圧力や政治的圧力によって、指導者がより強硬な姿勢をとるよう追い込まれ、妥協が難しくなり紛争激化のリスクが高まる
これらのシナリオを策定してから行ったのが、再現可能なニュース・フィルターの設計である。これにより、任意の時点でどの状態が有効であるか、現在の状態を前提とするとどのシナリオへ移行する可能性が最も高いか、という相対尤度を判断できるようになる。また、この枠組みは、停戦/相互撤退や紛争激化など、現在どの状態にあるかを裏付けたり否定したりし得る事象を特定するのに役立つ。以下に共有するのは、このニュース・フィルターを運用して得られた知見である。これらによって、特定の時点における紛争の状況や今後起こりうるレジーム移行が把握しやすくなるだろう。
枠組みから得られた主要な知見
1. 「移行リスク」という観点で考える
市場の価格形成は通常、シナリオに依存する。その結果、市場での再評価の大部分は、各状態の最中ではなく状態間の移行時に生じやすい。したがって、出口戦略の失敗や予期せぬ逆行というように移行が実現しなかった場合は、比較的多くの情報がもたらされ得る。こうした局面は、政策当局が直面している(そのような局面にならなければ目の当たりにすることが困難だったであろう)制約やインセンティブを浮き彫りにする可能性がある。新たな状態が明確になった点には、市場での再評価は大部分がすでに完了している。
2. 焦点が当てられているのは「停戦」という見出しであり、移行の信頼性ではない
市場の動向からすると、注目されやすいのはニュースの見出し、特に停戦の見込みに関する見出しであり、停戦という状態が達成可能かどうかについては十分な精査が行われていない。見出しに集中することで、市場は持続可能な移行に必要な条件、とりわけ双方の当事者がそれをやり遂げるインセンティブを持っているかどうかを見逃してしまう可能性がある。そうしたインセンティブが欠けていると、シナリオ2(戦争リスク支配型の威圧)として特定された「アトラクタ」状態(力関係が平衡している状態)へ回帰する可能性が高まる。
3. 均衡状態か移行状態か
市場は状態間の移行段階を新たな均衡状態と読み誤る傾向があるが、これがわかったのは、「長期化しやすい」シナリオ2(戦争リスク支配型の威圧)からシナリオ3(相互的な出口戦略)への移行が実現しなかった事例が数多く見られたからだ。相互撤退/停戦の実現は依然として危うく、双方からの譲歩によって支えられない限り持続可能ではない。信頼に足る歩み寄りが成されないため、シナリオ2へ回帰する状況が何度も繰り返されている。
4. リスクは原油価格にとどまらない
これまでのレポートでも述べてきたように、市場は今回の紛争を当初懐疑的に受け止めた後、従来の石油ショックという枠組みで捉えるようになった。しかし、そのような見方は完全とは言えない。波及リスクはより広範囲に及び、かつ相互に関連している。リスクはまずインフレに及び、それから金融市場(およびその避けられない調整)、マクロ経済政策、そして政治へと波及していく。こうした経路はすべて相互に作用し合っており、結果として、エネルギー価格のみに焦点を当てていると、今回の紛争が引き起こすショックのシステミックな性質を過小評価してしまうリスクがある。
5. 最も重要ながら見落とされがちな波及経路は、株式市場ではなく債券市場かもしれない
重要ながら見落とされがちな波及経路は、株式市場ではなく債券市場および金利への影響である。世界的な債券利回りの上昇は、インフレや中央銀行の政策に対する不透明感が強いことに加え、先進国の債務が歴史的な高水準にあることを反映している。インフレに対処するために中央銀行が政策金利を引き上げる可能性、そしてそれがさらに世界的な債券利回りの上昇を招く可能性は、必要な資本利益率、延いては資産のバリュエーションに重大な影響を及ぼす。
6. 停戦にばかり注目していると、インフレを誘発するメカニズムを見逃す恐れがある
最後に、結果を左右する主要な要因としてのインフレの役割が過小評価されている可能性がある。シナリオ4では、インフレは政策当局に出口戦略の模索を余儀なくさせる要因として働く。しかしこれは、(特にエネルギーやサプライチェーンに関連する)根本的なインフレ圧力を必ずしも解消するものではない。当該シナリオでは、米国・イラン双方における政治のインフレへの敏感度が意思決定を方向付ける原動力となる。インフレは双方を制約するメカニズムとして働き、政治面での譲歩は相互的な出口戦略への前触れ(およびその裏付け)となる。このメカニズムを無視して停戦にだけに注目していると、米国におけるインフレ圧力の「影響力」を見過ごしてしまう恐れがある。またこのインフレ圧力は、「相互的な出口戦略」への移行が達成された後も解消されない可能性がある。
まとめ
当社の分析によると、市場は停戦などの「結果」に過度に注目するあまり、状態間の移行やその経済全体への影響を見落としている可能性がある。
特に、インフレは紛争の結果であると同時に、紛争のさらなる進行に対する制約要因とも見なすこともできる。インフレ圧力は、停戦が成立した途端に急速に後退するのではなく、長期化して政策判断に影響を与え続ける可能性がある。
したがって、より強固な枠組みを構築するには、「起きていること」だけでなく、移行が実現したりしなかったりする「経緯」と「理由」を注視していく必要がある。
この意味において、移行リスクとその波及的影響、特にインフレと金利を通じた影響は、市場の価格形成と今後の展開の両方を把握する上でカギになると予想している。
これが長期スタンスの投資家にとって意味するところは、移行の完了が確認される前に停戦発表といった短期的なニュースに反応すると、不必要なツケを払う羽目になりかねないということだ。明確な譲歩や執行メカニズム、あるいは当事者双方に移行を完了させるインセンティブがあることを示すその他の証拠がない限り、出口戦略への期待に基づく市場の上昇はたやすく反転しやすいだろう。したがって、移行完了の確認を待つことは、最初の一歩を逃すという機会損失のデメリットよりも、移行が実現しないことに伴う市場での再評価の繰り返しを回避できるメリットの方が大きいと言える。
