本稿は2026年7月28日発行の英語レポート「The yen: carrying the weight of the world’s risk tolerance」の日本語訳です。内容については英語による原本が日本語版に優先します。
日銀が金融政策の正常化を続け、インフレが同中銀の目標を上回り、日米間の金利差が縮小しているにもかかわらず、円は複数の指標で依然割安な状態にとどまっている。資金回収期間の長いリスク資産を支えている「円キャリー取引」の役割を考えると、リスク選好、世界の流動性環境、あるいは日本の資金フローに変化が見られるまで、円は割安な状態が続く可能性がある。
なぜ円安が続いているのかという謎
2024年3月以降、日銀は金融政策の正常化を段階的に継続しているが、一方で日本の総合インフレと(価格変動の激しい品目や政府からの補助金の対象となっている品目を除いた)コアインフレは、ともに日銀の目標である2%を上回り続けている。名目賃金の伸びはプラス圏を維持しており、最近では実質賃金の伸びもプラスに転じている。ところで、円は様々なバリュエーション指標において依然割安な水準にあり、リフレの兆候や日米間の金利差の縮小にもかかわらず円高には振れていない。実際、ドル円レートは日米間の国債利回り格差に対する感応度が後退した模様(チャート1参照)で、その代わり米国の長期金利に連動するようになっている(チャート2参照)。
チャート1:日米間の国債利回り格差に連動しなくなったドル円レート

出所:信頼できると判断した情報をもとにアモーヴァ・アセットマネジメントが作成
チャート2:ドル円レートと米国債10年物利回りの推移

出所:信頼できると判断した情報をもとにアモーヴァ・アセットマネジメントが作成
この動きが(同一の現象ではないものの)関連しているのは、以前のレポートでも指摘した通り、(コストの低い円で資金を借り入れて海外市場に投資する)円キャリー取引の資金が、海外債券よりも、時価総額が大きく資金回収期間の長い少数のリスク資産銘柄群へ向かう傾向にあるという点だ。当該銘柄群はこれまでのところ、足元で継続中のテクノロジー投資ブームから最も恩恵を受けている。
これら2つの傾向の関連性は米国市場にある。S&P500種指数の12ヵ月先の予想利益ベースで算出した益利回りに基づくと、米国株式は長期資金調達コストの上昇(米国債10年物利回りで代用、チャート3参照)を十分に相殺できるだけのリスク・プレミアムをもはや提供していないように見受けられる。しかし、後述するように、投資資金を円で調達すれば、リスク・プレミアムを(特に魅力的と言える水準にはできないとしても)相対的に高めに保ちやすくなる。
チャート3:米国株式の対米国債でのリスク・プレミアムが縮小


出所:信頼できると判断した情報をもとにアモーヴァ・アセットマネジメントが作成
従来の説明では不十分:今回はキャリー取引で調達した資金が回収期間の長い資産に流入
最近の歴史が示すように、日米間の金利差はこれまで明らかに重要な材料となってきており、足元でも少なからず影響を及ぼしていると考えられる。しかし、それだけでは市場の動向を完全に説明することはできない。
むしろ、現在の狭義のキャリー取引にとってより重要なのは、市場全体、とりわけ日本において金融環境が依然極めて緩和的であり、金利が実質経済成長率に後れを取っているという点だ(チャート4参照)。これは日本経済にとってプラス材料だが、資金の国内流入・国外流出を制限する資本規制がなく円で資金を調達できるため、回収期間の長いリスク資産に投資する投資家にとってもメリットとなる。現在の円安は相対的なファンダメンタルズ格差だけでは説明しきれないことから、当社では、円キャリー取引が現在の市場レジームの主要な特徴であり、円に対する継続的な売り圧力を最も的確に説明できる要因だと考えている。
チャート4:日本の実質金利と実質GDP成長率の格差

出所:日本銀行の情報をもとにアモーヴァ・アセットマネジメントが作成(データは2026年5月時点)
「高金利の長期化」がまだキャリー・レジームを混乱させていないのは何故か
以前のレポートでも指摘した通り、一部の中央銀行は焦点を経済成長の下支えからインフレ抑制へとシフトさせつつあり、米国を含む複数の国の市場では「高金利の長期化」レジームが織り込まれつつある。高金利の長期化はやがて、流動性が後退し割引率の上昇を受けて将来の収益の現在価値が低下するのに伴い、リスク資産にとって逆風となり得る。しかし、金融政策は即効性のあるツールではなく、効果の顕在化には時間がかかる傾向にあり、場合によっては数四半期を要することもある。現時点では、市場はこうした予想を完全には織り込んでおらず、リスク資産に対するハードル・レート(つまり求められるリターン)は大幅には引き上げられていない。このため、円で調達した資金が米国のリスク資産に流入していることはある程度合理的と言えるが、その結果得られるリスク調整後リターンが特に魅力的というわけではない。今のところ、「円キャリー取引の資金が回収期間の長い資産に向かう」レジームに依然変わりはない。
日銀が直面する課題:「政策対応で後手に回る」という単純な話ではない
一部の投資家は、円安は単に日銀が「政策対応で後手に回っている」という要因だけで説明できると主張している。しかし、インフレが短期金利の範囲を超えるのを許容してしまったと日銀を批判期待する前に、あらためて確認しておく価値のある2つの点がある。第一に、前述した通り、現時点では対ドルでの円安を説明するのに相対的な金利差だけでは不十分である。第二に、最近の円相場動向を説明する上で、日本国債の利回りは米国債の利回りほど有用となっていないものの、長期日本国債の利回りの上昇については、市場の日本に対する見方を示しているという点で、依然考察する価値がある。
チャート5および6は、日本国債10年物の利回りを2つの異なる観点から分析したものである。チャート5は、日本国債の利回りから算出されるブレークイーブン・インフレ率で測ったインプライド・インフレ期待が、上昇しているとともに10年物利回りの上昇の大部分を占めていることを示している。これとは対照的に、実質利回りの変動は小幅にとどまっている。チャート6は利回りを別の観点から考察したもので、ターム・プレミアム(債券の残存期間の長さに伴う上乗せ利回り)をリスク中立金利から分離している。これによると、日本国債利回りのターム・プレミアムの拡大が反映しているのは、日銀の政策対応が物価動向に後れを取っているという市場の大方の見方というよりも、財政の信頼性に対する懸念だと考えられる。比較として、チャート5と同様の手法で米国債の利回りを分解してみると、インフレ期待と実質利回りがともに上昇しているほか、ターム・プレミアムがチャート6で示した日本国債に比べて小幅ながらプラスとなっている。こうした展開は、FRBが金利をより長期にわたって高めに維持すると市場が予想していることを示唆している。
チャート5:日本国債10年物利回りの分解

出所:信頼できると判断した情報をもとにアモーヴァ・アセットマネジメントが作成
チャート6:日本国債10年物利回りのターム・プレミアムと予想金利

出所:信頼できると判断した情報をもとにアモーヴァ・アセットマネジメントが作成
総合すると、これらの指標は、市場が依然コストの低い円での資金調達と、後退しながらもまだ存在している米国金融市場の利回り優位性とのギャップに、相対的な投資機会を見出している、という当社の見解を裏付けている。
交易条件の緊張と日銀の金融政策正常化という課題
それでも、エネルギー価格の上昇と円安が相まってもたらしている影響が重要ではない、というわけではない。日本の交易条件の悪化は数値化することが可能であり(チャート7参照)、日銀が最近、消費者インフレ期待の形成における円の役割に一層注意を払っていることを示唆した理由の1つである。しかしこれは、日銀が金利の正常化を継続する理由にはなるものの、緊急利上げにつながるとは考えにくい。日銀の目標は為替レートそのものではなく、インフレ率であるからだ。また、円相場が日銀の金融政策スタンスに部分的にしか反応しておらず、その他の要因が同中銀のコントロールの及ばないところにある点にも留意が必要と言える。とはいえ、円安がさらに進めば、日銀がよりタカ派的な発言に転じたり金融正常化のペースを加速させたりする可能性は依然としてある。
チャート7:交易条件の悪化

出所:Macrobondの情報をもとにアモーヴァ・アセットマネジメントが作成
実際に円高に転じるとすればその要因は
当社のグローバル投資戦略委員会が第3四半期の中期展望で指摘したように、リスク許容度が低下しリスク資産のハードル・レートが引き上げられるレジームへの世界的な移行を促すカタリスト(きっかけとなる要因)が当面見当たらないなか、円で資金調達を行うキャリー・レジームが続くと予想している。これは、当面は円の低迷とリスク資産の好調さが続く可能性が高いことを示唆している。しかし、当社では、このレジームの崩壊を示す兆候について警戒態勢を維持していく。このレジームがいずれ反転するとすれば、その潜在的カタリストとして以下のような要因が挙げられる。
「円キャリー取引の資金が回収期間の長い資産に向かう」レジームに関連する要因
- リスク資産のリターンやリスク資産に対する投資家心理の本格的な悪化
- リスク選好度の低下
政策要因
- 日銀のタカ派姿勢が現在の市場予想に比べて著しく強まったと認識された場合
- (各国中央銀行が示唆している)世界的な金融環境の引き締め
- 中国人民元のさらなる上昇とそれがドル建て資産に及ぼす影響
実際の資金フロー
- 日本の企業および機関投資家による海外資産からの資金引き揚げ(本国回帰)の拡大
日本の投資家に見られる資金フロー調整の初期兆候
上述の最後の点について、当社が過去のレポートで繰り返し指摘してきたように、日本に巨額の経常黒字をもたらしているのは貿易収支ではなく第一次所得収支の投資収益だ。この収益の約半分はポートフォリオ投資に起因しており、その大半は(これまでの投資資金フローのデータに基づけば)海外で再投資されていた可能性がある。日銀短観で示された大手日本企業の海外売上高の堅調な伸びが裏付けるように、直接投資の収益も海外で再投資されてきた可能性がある(チャート8参照)。しかし、最近の日銀短観では投資意向に変化が生じつつある可能性が示されており、海外への投資意向の伸びが国内への投資意向の伸びを下回って国内投資への転換が示唆されている。もしこれが新たなトレンドの始まりであるとすれば、海外での再投資から国内での新たな投資へと資本の再配分を促すのに十分なほど、円は足元で弱く国内の経済成長見通しも堅調であることを示唆しているのかもしれない。これだけでは「円キャリー取引の資金が回収期間の長い資産に向かう」レジームを反転させることは難しいだろうが、注視していくべき重要な実体経済の指標であることは間違いない。
チャート8:日本企業で海外での売上高および投資が占める割合

出所:日本銀行およびMacrobondの情報をもとにアモーヴァ・アセットマネジメントが作成(データは2026年6月時点)
